港のひと 003 抄

 

「10年過ぎて、文枝さんが決めたこと」

月永理絵

 初めて読んだ吉行淳之介の小説は何だっただろう。彼の小説の題名を覚えるのは難しい。『夕暮れまで』や『暗室』などの有名な作品ならまだしも、短編の数が多すぎて、あれはどの作品だったかな? と思い出すだけでひと苦労だ。母の本棚から抜いた本は、高校生の私には少しだけ刺激的だったことを、覚えている。

 吉行淳之介というといつも歩いているイメージが私の中にはあった。淳之介の顔もどんな人かも知らなかったけれど、その小説に登場する人々はみな、街をふらふらと歩いているような気がした。

「見えない力にものすごいスピードで動かされ、私はそれにただ従うだけでした。」(『淳之介の背中』吉行文枝)

 歩き回る淳之介の背中を、文枝さんは後ろからそっと見つめていたのだろうか。スピードの中にいる淳之介の姿を、一つずつ言葉にしていく。私にとっての吉行淳之介は、文字の中の人だ。淳之介は、一人の作家、それも過去の人でしかなかった。吉行淳之介の妻であることが、どんな感情を抱かせるのか、私には想像もつかない。淡々と書かれた文章の中に、文枝さんの感情が時折溢れそうになる瞬間があったように思う。淀みない言葉のリズムに紛れて、するりと通りすぎていく。彼がいたスピードの中に自分の身を置いてみること。淳之介が亡くなって。10年、文枝さんが決意したのはそういうことなのかもしれない。『淳之介の背中』の言葉の中に、ぼんやりと淳之介の輪郭が浮かび上がるような気がした。文枝さんは、とにかく色々な場所に連れていかれたようだ。岡山の叔父の家へ行き、新宿や銀座で飲み歩き、ときには映画館やストリップ小屋にまで一緒に行ったという。車を購入すると彼の散歩婦はますます高まり、何かに追われるように外へ外へと出歩くようになった。

 やはり淳之介は歩く人だったのだ、と思い、じっとしていられなかった彼の背中にしばし寄り添ってみる。読み返すその度に、彼の歩みは加速していく。吉行淳之介は相変わらず文字の中の人だけれど、『淳之介の背中』を読み終わり、ぼんの少しだけ言葉の外へ飛びだしたような気がした。

 


 

いをまちばし通信3「由比ガ浜海岸」

上野勇治

 二〇〇二年十一月二十日保昌正夫先生が亡くなった。訃報を突然の電話の西野浩子さんから聞いたとき、絶句した。その月の初め、先生から電話をいただいていた。そのうち缶ビールでもご馳走するから会いましょうと言われた。持て余すほどに伺う時間は幾らでもあったのに、無精していたら遅すぎた。悔いるばかり(いつも)、なにも出来ず、あたまのなかがぐるぐる、ぐつぐつ鳴っているばかり。なにも尽きっこない。

 小社初めての書物が先生の『川崎長太郎抄』初版三百部だった(九七年十一月)。二冊目が九八年八月の『和田芳恵抄』初版二百二十部。いずれも部数は極端に少なかった。先生は常々、本は姿見であると言われた。中身に伴う外見云々というようなことは言われない。本の、姿見とは、どういうことなのか。

 『和田芳恵抄』の編集が始まっていたその年の三月、保昌先生からハガキを頂戴した。

  ──14日(土)ご無理押しつけ申訳ありません。カマクラで観たいところツルガオカ八幡宮、ハセの大仏、海、その他一、二カ処。早目の夕食一人三、四千円どころ。6:30ごろにはカマクラ発ちたし。(略)

 フランスから先生の教え子だった女性が久しぶりに日本に帰って来たので、その女性を連れて鎌倉を散策したいとのこと。

 春の鎌倉は海風がびゅうびゅうびゅうびゅう吹き荒れる。保昌先生と教え子を案内した日も風がつよかった。

 午後二時半に鎌倉駅で落ちあい、まずハセの大仏に向った。大仏サマの体内には入らなかった。タクシーで由比ガ浜海岸に行った。

 滑川の交差点の手前でタクシーを待たせて、浜に下りた。「どうも風がつよいね」と先生は言いながら、記念写真を撮ることになった。保昌先生と教え子、教え子とぼく、つよい風のなか、目もあけられず、頬に砂があたり、痛かった。先生の白髪は風にいいように操られていた。それから鶴岡八幡宮に行き、「その他一、二カ処」を飛ばして、小町通りの小料理屋で食事をした。ちょうど六時半ごろ別れた。

 後日、送られてきた写真はぼうぼうぼうとかすんでいた。