港のひと 002 抄

 

「北村太郎さんと港の人」

上野勇治

 詩人北村太郎さんは最晩年、鎌倉に暮らされていたが、鎌倉の人というよりは、横浜の人だろう。しおからいスパイスがきいた横浜の街によく似合う詩人だった。横浜時代は好んで街を歩かれ、大晦日の夜は、山下公園近くにあるグランドホテルで霧笛を聞きながらコーヒーを喫み年を越すことがお決まりだったようだ。その一時期、北村さんが路地をはさんで隣の家に引っ越しされた経緯から家族ひっくるめてお付き合いさせていただいた楽しい想い出がある。97年に会社を立ち上げるさい、社名は北村太郎詩集『港の人』からいただいた。わたしはいま、北村さんはたたかう人だったのではないかと思っている。早い晩年を経るにつれ、北村さんは〈気ばらし〉を捨て去り、そして〈偏狭〉にはげしく傾斜していった。はげしいぶん、姿のまわりに、すがすがしい風が吹いていた。北村さんの短いエッセイにこんな文章がある。「わたくしはあまり運なることばを使いたくない。ひとが、それは運だよ、というとき、わたくしなら何もいわず、沈黙していたい。運に対抗できるのは、ただひとつ、沈黙しかない」(「運と沈黙」より)。最後まで黙してたたかいぬかれた。まだまだ早過ぎたよ、北村さん。

 


 

「鎌倉・かまくら」

山本道子

 私の住所には神奈川県鎌倉市という文字がつくけれどただそれだけのことで、実際には鎌倉の住人のような気がしないといったほうが正直なところである。「はい、私が住んでいるのは緑地破壊新開地の七里が浜東ですから鎌倉ではありません」こんなロジックに可愛げがないのは承知している。しかしどうしたわけかこの潜在意識は首筋に生じたシミのように頑固に染みついてしまってどうしても拭いきれない。

 この地に住むことになったのは所帯をもったばかりの、それも親からの宛がい扶持であった。葛や茅が一面に生い茂った造成地にぽつぽつ住宅が立ちあがった頃だった。つつましく草深い庵を建ててここで死ぬことになるのかしら、などと青写真を眺めながらしんねりと自身に問いかけたことである。

 ところが予定は未定で、若い家族に待っていたのは海外移住であった。一九六八年のことで高度成長の先駆けのように企業の海外勤務が目立ちはじめた。オーストラリアのダーウィンでの三年間を終了して帰国後、家族も増えたことだし、必要に迫られて私たちはようやく住み処を建設した。ところが腰も座らない数年足らずのうちに再び海外勤務の命が下った。四年間シアトルで任期を果たし帰国してから、今度こそ自分たちの家に落ち着けるはずであったが現実の試練は厳しく、家族の通勤通学にはなんとしても遠隔地の不便さから都内で五年間暮らすことになった。

 そんなわけで主婦の私がようやく墓石ともいえる心穏やかな安住の地に住みついたのはそれからのことになる。こんないきさつのせいか私は鎌倉という地に馴染めないでいる。いまだに時間が足りないような気がするのである。ここは子孫たちの故郷になるのだろうか。おぼつかなくそんなことを考えてしまうこともある。いやいや故郷などというのはこんなものではない。しかし私が先祖になる頃には、そこはかとなく侘しくも懐かしい感慨がかもされるかもしれない。そうなると私の鎌倉もしっぽりと潤って、世間の口の端に弄ばれる名所旧跡古都寺町のポスターもさほど気にならなくなるかもしれない。なにはともあれ現生に貪欲な執着を抱いて安住の地に抱かれてみるのもいいことかもしれない。それもやっかいなことではなるが。

 夏の鎌倉は「かまくら」になる。遊泳禁止の七里が浜にもビーチパラソルが砂地を覆い、サーファーたちが波乗りに熱中している。サーフィンには最高級の波とはいえないが、彼らは失敗を繰り返しながらも根気よく波と遊んでいる。堤防に寄りかかってそんな光景をぼんやり眺めていると、健康なかまくらにエールを送りたくなる。

 この夏休みのこと、二歳の孫を連れていつものように壮大な日没を拝みに海辺をぶらついたときのこと、白く泡立つ波間にサーフボードのグループが遊んでいた。それを見つけた小さな彼がたどたどしく「カメ、カメ」と叫んだ。とっさに海亀でもあらわれたかときょろきょろしたが、なんのことはない、ボードにしがみついて波にもまれている連中に興奮しているのである。なるほどカメにそっくりだ。「ホントだ、カメさんがいっぱいだ」

 痩せた夏に薄い幕が降りる頃には、幻の海の家はばたばたと消えていく。なんといっても移ろう季節には逆らえない。「鎌倉」も「かまくら」もそれぞれの色香を充分に心得ているところがいい。

 


 

「源頼朝の連歌」

白井忠功

 鎌倉幕府の創始者・東国武士の棟梁として活躍した源頼朝(久安三年〈一一四七〉?正治元年〈一一九六〉)は、和歌・連歌にも優れていたことは余り知られていない。いま、彼の文学的な側面、とくに連歌について記述してみたい。

 鎌倉幕府の歴史書『吾妻鑑』(『東鑑』)を披見してみると(『全譯吾妻鑑』)、

  建久元年(一一九〇)十月十八日、已亥。

  橋本駅において、遊女等群参す。繁多の贈物ありと云々。これより先、御連歌あり、

  はしもとの君にはなにかわたすべき

   頼朝

  ただそまかはのくれてすぎばや

   (梶原)平 景時

 が、最初の連歌についての記事である。(連歌は、和歌の上句と下句とを交互によみ連ねるものである。上句・下句の唱和〈短連歌〉は古くからあった)。

 頼朝は奥州藤原氏を討滅後、上洛して後白河院と会見して、権大納言・右近衛大将に任ぜられたのである。その上洛の道中、橋本(今の浜名湖の南西の新居町)で詠んだ短連歌である。この連歌は連歌集最初の『菟玖波集』(二条良基撰。延文元年〈一三五六〉。日本古典全集)に、次のように記載されている。

  建久元年上洛し侍りし濱名の宿につきて酒たうべてたたんとしける

  橋本のきみには何か渡すべき

  前右大将頼朝

  ただ杣山のくれてあらばや

   平 景時

 頼朝、景時主従二人が詠んだ短連歌の様子が記されている。「橋本の遊女たちへ何を贈ろうか」という頼朝の前句に、「祝儀をやればよろしいでしょう」と付句を景時が詠んだことの当意即妙が興味ぶかい。「杣山の槫というのを呉れの意に転じ、纒頭(祝儀)をやればよろしいと申し上げ、日の暮れを待っている様子が見える」と解釈もある(前書)。

 『菟玖波集』には、頼朝と景時の短連歌について、次の記載がある。

  秀衡征討の為に奥州にむかひ侍りける時、名取川を渡るとて

  我ひとりけふのいくさに名取川

  前右大将頼朝

  君もろともにかちわたりせん

   平 景時

 頼朝の泰衡・秀衡の追討は文治五年(一一八九)七月十九日「頼朝泰衡追討のため奥州に進発す」(『吾妻鑑』第九)であった。その折りの短連歌と思われるのである。前句は「名を取るに陸前の川名をいいかけ」、付句は「かちわたりに戦勝を兼ねさせひとりに対し、もろともに」と付けたのである。頼朝の得意、景時の機智を窺うことができるのである。

 『吾妻鑑』にみえる上洛の記事を記すと、「建久元年(一一九〇)十月三日、頼朝上洛のため鎌倉を進発す」。「建久六年(一一九五)二月十四日、頼朝東大寺供養臨席のため鎌倉を出発す」。「三月四日、頼朝入京」とある。頼朝が征夷大将軍に任ぜられたのは、建久三年(一一九二)七月十四日であり、実朝出生が八月九日であった。

 次の短連歌は、頼朝が二度目の上京の折りに詠んだものと考えられる(『菟玖波集』第十九)。

 

  前右大将頼朝上洛の時、守山を過ぎけるに、いちごの盛りなるを見て、連歌せよと云ひければ、

  もり山のいちこさかしくなりにけり

   平 時政朝臣

  むばらがいかにうれしかるらん

    前右大将頼朝

 この付合については、『古今著聞集』(巻第五。和歌第六・二一五。日本古典文学大系)に、「右大将頼朝北條時政と連歌のこと」として、

  同大将、もる山にて狩せられけるに、いちごのさかりに成たるをみて、ともに北条四郎時政が候けるが、連歌をなんしける、

  もる山のいちごさかしく成にけり

  大将とりあえず、

  むばらがいかにうれしかるらむ

 とみえる。「守山」は、滋賀県野洲郡守山町、「いちこ」は市子で町家の子供、口よせのみこのこともいう。前句「守山の市子は怜悧になった」、付句は「姥たちがどんなに嬉しがることやら」というのである。市子に苺、うばらは縁語、もるはまもる。養育するの意のもると守山とを掛けた語であり、「さかし」は盛りである意、「むばら」は、いばら(茨)の意と乳母等を掛けた語である。

 また、『菟玖波集』巻第十九に、次の付合が記載されている。

  狩に出でける道に狐の走り出でたるを見て、

  白げて見ゆるひる狐かな

    前右大将頼朝

  契あらば夜こそこんといふべきに

    平 景時

 頼朝の富士野藍沢の夏狩りに時の詠である(建久四年〈一一九三〉五月八日)。前句の昼。付句の夜。狐の白、夜の黒の対比と「来んというのに狐の鳴き声をコンといひかけて」付けた即興の面白さがみられる。

 頼朝の連歌の相手が景時であったのは、当時の武士のなかで、彼が抜群の詠み手であったことの証左であろう。

 頼朝の和歌二首が、第八代勅撰集『新古今和歌集』に入集している。勅撰集入集は名誉であり、歌人としての名声の高さと実力を物語るものがある。三代将軍実朝は父の和歌を早く見たいと懇望したという。

(拙稿「連歌師と鎌倉」による。季刊『悠久』第70号「特集中世文学と鎌倉」、鶴岡八幡宮編集、おうふう刊、平成九年七月)

 


 

自著を語る『日本語学叢考』

鈴木 博

 私は滋賀大学教授時代に、教育学部附属養護学校長を二年間、併任した。大津市平津の教育学部からは北方の、唐崎の近くにある養護学校までは約十三キロある。教育学部での講義や卒業論文の指導などをしながら、一方では養護学校(小学部・中学部・高等部)の責任者として、養護児童生徒たちの抱える諸問題の解決に尽くす教職員の力に少しでもなれるように奮闘したが、任期二年の終了間際に、神経の使い過ぎから体に異変が続き三週間ほど入院した。種々の検査の結果、膵炎という診断を医者から告げられた時、 本当は膵癌ではないかと、ちょっと疑い、もしそうならば余命のあるうちに、研究書を出したいと痛切に願った。慢性膵炎という病名を貰って退院し、外来での検査・服薬を続けながら、幸いに、念願の書『室町時代語論考』を八カ月後の昭和五十九年十一月末に刊行することができた。

 その校正刷を恩師土井忠先生に捧呈し、序文をお願いしたのであったが、土井先生は丁寧に読んでくださって身に余る御序を頂戴する幸せに浴した。その玉稿が届けられ拝読していて感涙にむせんだ。

 本が出来上がって、多くのかたがたにご覧いただいたが、東京からお二人のかた、すなわち出身大学の異なるK氏とS氏とから、それぞれにお電話を頂戴し、異口同音のような「実に羨ましい。自分には、もはやこのような序文を戴く恩師はおいでにならない」という、羨望に満ちたご感想を頂いた。

 この度のささやかな拙著『日本語学叢考』の「あとがき」に、国語学への本道へお導きくださった土井先生に対する仰慕の気持ちの一端を記したが、私は専任として勤務した滋賀大学で、さらに定年退官後の大谷女子大学で、そして今は非常勤先の大谷大学で、学生指導の方法に自然と土井先生流を模していることに気づく。この拙著には、卒業論文以来のカナ抄の研究に関するもののほかに、本書の「はしがき」において、所収の各論稿に対する自注の中で記しているように、

 学生諸君に講義して来たことなども一部加筆して収めた。

 


 

「未来うどん」

嶋岡 晨

灰のふる坂道を

あえぎあえぎ走るのは 「未来屋」の

銹びた出前の自転車……

 

禿げ山の上の階段教室の

最終講義

ついに未知なる愛を語りつづける

老教授からも灰がふり

聞き入るキノコ耳のむれにも

 

せめて謝ってほしい 嘘ばかり

教えてすまなかった と

だが伸びつづける髯は椅子に絡み ひとり

人類の幸福は……と 入れ歯を鳴らし

 

へい お待ち遠ォ……教壇の上に

岡持ちを置き 幽霊は走りさる

灰のふる新世紀の傾斜面

 

ああ 秋の夕暮れのつぎはぎの地平

世界の最後のいっぽんの

「うどん」をすすりこむ

その音のかなしさ。

 


 

特集 北村太郎さんのこと

「タローさんとサブロー」

田村和子

 「横浜のオカザキさんがくれたから十一月十一日はサブの記念日」これは俵万智のサラダ記念日を真似して太郎さんが口ずさんだものである。サブローとは猫のことだ。サブに申し訳ないのだが、私はこいつが我が家に来た時全く可愛いとは思わなかったのだ。私も子供の頃からたくさんの猫たちを飼ってきたが、動物と人間にも妙に相性があるということをこの時はっきり気がついた。サブは我が家に来たとたんに風呂桶のせまい床下にもぐり込んでしまい、頑なとして一日中出て来なかった。私は大量に水を流し込むという荒療法でおびき出そうと考えたのに、太郎さんは実に根気よくやさしくあたたかく声をかけ続けて、ほとんど一日余りかけて自発的にとび出して来るのに成功した。出て来た瞬間サブは太郎さんの胸にすがりつき、そのまま彼の膝にのり続けお風呂に入る時もふたの上にのり、寝る頃には足にまとわりついて太郎さんがベッドに入ると同時にふところの中へもぐり込み、太郎さんもサブもとても可愛らしかった。間もなく一匹ではかわいそうと他家からサブのために全く同じ時期に産まれたタラとゴローがやって来た。サブは今問題になってる引きこもりではないかと少々心配だったが、とんでもない思いちがいで大そう活発な少年猫だった。サブは大いに喜び家中三匹でかけまわりじゃれあってそれはなんとも楽しい情景であった。今思うとサブに人の好き嫌いのはげしい神経質な猫で、ほんとにやさしい人間を嗅ぎ分ける嗅覚の鋭い奴だったと思える。猫は家につくというが人にもしっかりつくということを私はこのことで知った。

 太郎さんが我が家に最晩年住むようになるまでには約八年にも及びすさまじい嵐が吹き荒れた。今から二十五年も昔のことだから詳細は忘れたが、田村隆一と太郎さんに共訳の仕事が舞い込んだ。太郎さんと田村は府立三商時代の同級生で詩の仲間としてその交際は終生にも及んだ。田村は生涯に亘って膨大な翻訳を生きるためにせざるを得なかったが、そのほとんどは下訳者に依存していた。それが太郎さんとの共訳であれば田村は安心してまかせていられるわけだ。その原稿の受け渡しの役が私であった。田村はほとんど酒場にいて我が家の夕食はしばしば空振りが多かったから月に何回かの原稿のやりとりの時、お茶から夕食を御馳走になるなんてこともあった。小さな誤解から小さなさざ波になり、やがてそのうねりが大波そして嵐に変化していったのだ。あの頃は太郎さんのお宅、そして我が家も大海原に弄ばれる小さなボートだったのではないだろうか。当時島尾敏雄の『死の棘』壇一雄の『火宅の人』などが出版され、ああこれよりはマシかなどとたかをくくっているうちに、太郎さんは家を出られた。そして私は次第に精神を病んでいった。病んでいる自分をその頃客観視は不可能だったが、おそらく家事もまともに出来ないうっとうしい私だったろうと思う。田村は徐々に我が家へ帰って来なくなった。

 鎌倉市内にある精神病院に自殺のおそれありということで私は入院したが、田村の見舞いは一度もなかった。太郎さんは横浜から私の好物を手みやげに週に一回は必ず来てくれた。よほど狂暴でもない限りあの種の病院は個室に入れない。私は太郎さんが来てくれるのを心待ちにしていた。同室のちょっとずつおかしい人たちのふる舞いをこまかく描写して報告する私に太郎さんは安心したという。正確にとても愉快に話をするのでこの人は重くない必ず治ると確信した、とずっとあとから太郎さんに聞かされた。その見舞いの帰り道に、私を狂わせたのは自分だと涙がとめどなく流れたという。重篤な病気で六十九歳で逝った太郎さんに手を合わせてお詫びしたいが、私は私自身を制御出来ずに自分で自分をこわしたのだと今でははっきりそう考えているのだ。

 昭和六十三年の十月頃Aさん宅に住居を移した田村から手紙が来た。すべてから解放され独身者になりたいという。精神科の先生は私のような気質の人間は離婚すると案外病気から逃げられるかも知れないといった。私は書類が送られたその日のうちに市役所にとどけた。

 私は人生を損得で考えるのは好きではないが、田村がAさんとすぐ入籍して娘さんまで養女にしたのをやがて知りちょっと損したなと思った。しかしそれでせいせいして太郎さんを我が家に迎えてあげる方が急がれたのだ。彼は絶対に助からない病いにかかっていたのだから。

 太郎さんは我が家へ来てとても明るくいつも元気そうだった。私のことを“ワタイさん”と呼んだ。私がふざけて自身のことを“ワタイ”といったのがきっかけだ。東京の下町育ちの太郎さんに“ワタイ”というひびきは心地良かったはずだ。昭和のはじめ下町の小さい女の子は自分のことを“ワタイ”というのを私は聞いていたし、それを子供心に可愛いと感じていた。

 平成二年秋第四十回読売文学賞の本賞は硯だったが、副賞の百万の中から音楽好きの私のためにCDコンポをプレゼントしてくれた。

 私の料理は天才だとほめてもらい、時には太郎さん自身も腕をふるってくれた。

 一ヵ月に一回東京の虎ノ門病院へ定期検診に行く時、寝坊の私にネコの画入りの置手紙があった。

 平成四年十月七日午後病院から緊急入院になったので売店でいろいろ買って入院するからゆっくり来てねという電話があった。亡くなる三日前からお父さん子だったアブ(ことサブ)が全く餌を食べなくなった。静かに目をつぶっている太郎さんに「お父さんアブタンが全然ごはん食べなくなったのヨ、早く帰って来てやってよ」と声をかけると、太郎さんの目からはらはらと涙があふれた。

 その三日後人工透析中に太郎さんは逝った。そして翌年の寒い日お父さんが大好きだった“アブタン”も死んだ。

 


 

「赤トラ太郎」

江崎 満

 我が家には現在八匹の猫がいる。猫が特別好きなわけではなく、飼おうと思って飼ったのではない。仕方なくといっては猫に失礼かもしれないが、それが正直なところである。

 十年も前のことだったか、一匹の雌の野良猫が縁側の隅に忍び込んで子供を産んだのがことの始まりだった。子猫が少し大きくなったら捨てに行こうと思っていたのだが、やはり子猫は可愛いのであり多少は情も移った。それに、この母猫が実にりりしく賢かった。頻繁に狩りをするのである。ねずみや小鳥をとってきては子猫たちに与えるのである。その光景は野生の母ライオンさながらであって、なるべく我々には世話はかけないといっているようであった。我々夫婦はいつしかこの母猫に尊敬の念を抱くようになり、ついに彼女は市民権を得たのであった。三毛猫だったので「ミケ」という名を付けた。十年後の今、いうまでもなく八匹の猫たちは彼女の子孫である。八匹の中に三匹の赤トラがいる。一番の兄貴で図体もでかいやつの名は「太郎」、二番目は「小太郎」、一番小さくまだ小猫の赤トラは「小小太郎」である。我が家で生まれた赤トラにはとにもかくにも「太郎」という名前を付けることがいつの間にか習慣のようになって定着している。

 詩人北村太郎が亡くなってから十年が経つ。友人から危篤の報を聞き東京の病院に駆けつけた時、すでに氏の意識はなかったが手を握ると微かに握り返して下さったのが最後となった。再生不良性貧血だった。亡くなられた日の帰り、横浜ベイブリッジから夕日の中に富士山がくっきりと浮かび上っているのが見えたことを今でも鮮やかに憶えている。

 我々が横浜で暮らしていた頃、氏には大変お世話になった。その頃、我輩は漫画の原作が仕事だったが、仕事に詰まるとちょくちょく氏のアパートにお邪魔した。氏のアパートは山手山元町の丘の上にあり、我輩の住む柏葉とは歩いて二十分もかからなかった。六畳と小さな台所がついた狭いアパートだったが、昼時などにお邪魔すると、そこかしこ本が積んであり足の踏み場もない六畳に招き入れてくれ、「さあ、飯でも食うか」といつも麺類を作って出してくれるのである。氏はもともと浅草のそば屋さんの出で麺類には自信があったし作るのも上手だった。「打ち水のタイミングなんだよなあ」とかいいながら、さっと作るのである。特に夏の冷麦はあっという間に出来上がった。さっと出来上がり、どっと食べ、 ふうーと溜め息をつき、がくっとうなだれる。それで氏は冷麦のことを「うなだれ定食」といっておられた。

 我が家にもよく遊びに来られた。来られる時は大抵、我が女房殿に髪を切ってもらいたい時やジーパンを切って欲しかったりする時だった。氏はスーパーに売っている安物のジーパンと合成皮革の革靴を愛用されていて、夏になるとそのジーパンを膝の所で切って半パンにされるのであった。半パン姿で肩から掛けた買い物袋に大根を入れ、下町風情の残った山元町の商店街を飄々と歩いておられる氏の姿はよく憶えている。散髪やジーパン切りが終わると、赤ん坊だった子供たちを抱いてあやして下さったり、時にはハーモニカを吹いたり歌をうたって下さったりもした。

 勿論、色んな話も聞かせていただいた。氏は詩人であり文学者だが話といえば専ら自分の失敗談や友人達の話、日常の面白い出来事などで、それをあけすけにユーモアたっぷりに話して下さり我々を笑わせてくれるのだ。我輩にしてみれば詩人との付き合いというよりは市井の一人の自由なおじさんとの付き合いだった。氏の話の中で特に印象に残っているもののひとつに猫の話がある。氏は特に猫が好きで、猫の話となると手振り身振りでそれは面白いのであった。氏は詩人であると同時に猫の達人でもあった。いや、野良猫と付き合う達人であった。猫が好きだったが決して飼おうとはされなかった。野良猫と付き合うのである。氏のアパートがあった山手山元町の丘は下町ということもあり野良猫が沢山住んでいた。そやつらが風入れのため開けた窓から勝手気ままに氏の部屋に入ってくるのである。中には知らんぷりして氏のベッドにもぐりこんで寝ているやつもいたらしい。我輩が部屋にお邪魔している時も、さも自分の家であるかのような顔で窓辺でくつろいで寝ているやつや氏と話をしている最中そしらぬ顔でそばを歩いていくやつ、いろんなやつがいた。食事の食べ残しがあればやっておられたようだが、いつもではなかったようだ。猫も勝手気ままならば氏も勝手気ままに猫と付き合っておられた。ひょっこり気ままに現われる野良猫に声をかけてやる氏はあくまでも優しく、自身も遊んでおられた。それは人間と猫との対等で自由な絶妙な関係であって傍から見ていても理想的に思われた。まさに猫の達人であった。

 ある日、氏は遊びに来た文学仲間と碁を打っていた。その時窓辺に薄汚れた赤トラの雄猫が一匹寝ていていたらしい。 文学仲間のその人は猫を見て「なんと不細工な猫だな」と感想を漏らしたらしい。さて、碁も終わってその人が帰ろうと立ち上がったその時、じっと寝ていた赤トラ猫が蹶然と起き上がり脱兎のごとく走ってその人の足に飛びついたかと思うやかかとにガブリ噛みつき、そして走り去ったのだという。氏はその事件を微に入り細に入り身振り手振りで説明して下さり、興奮冷めやらぬ顔で「猫っていうやつはいつも知らん顔しているが、人間のいうことは何でもちゃんと分かっているんだ」と感想を漏らされた。

 氏から御自身の文学論や詩論などはあまり聞いたことはないが、猫論というのは度々聞かされた。氏の長い猫との付き合いと観察の中で生まれたエッセンスである。その中に、猫の性格というのは人間でいえば血液型のようにおおよそのところ毛色で分けることができるというのがある。赤トラの性格、きじトラの性格、三毛猫の性格というように毛色独特の性格があるというのである。なぜそうなのかは分からないがそうなのだと氏は自信をもっていわれるのである。その話は我輩の猫体験に照らし合わせても妙に説得力があった。無理やり理屈をくっつければ毛色も性格も遺伝子が決めるのであるから毛色の遺伝子と性格の遺伝子に何らかの関係があるのかもしれないなどと考えることもできそうだが、そんなこと考えても埒は明かない。

 とりわけ氏は赤トラの猫が好きだった。氏がいうには赤トラの猫の性格は「ふざけている」らしい。知ってのとおり猫というのは犬と違って人間との関係、意志疎通が薄くまったく自分勝手に行動する。よくいえば自立しているわけである。その自由さが気持ちいいのであるが、赤トラというのはそういった猫の規格を外れたところがあるというのが氏の考えであった。度外れてのんびりとしており、人間にハゲシク関係を求めてきたり、なんだか犬に近いところがあってまったくふざけたやつだというのである。また赤トラには所謂の美猫が少ない。身体に比べて顔が異様にでかく、それでいて目が小さくぶすっとしているのが多い。それも氏の好みに合うようであった。

 我輩が横浜から奥能登に移住したのは氏との知遇を得て五年後のことだった。僅か五年の付き合いだったが、人生を迷っていた我輩を励まして下さったり、沢山のアドバイスを頂いた。氏から多くのことを学んだが、それを一言でいうと「自由とは何か」についてであった。観念論ではない。実生活の上での自由である。氏は丘の上の狭い安アパートに暮らす自由な生活者であった。氏は三十歳も年下の我輩に大人としての尊大さを見せたことがなく、あくまでも対等なひとりの人間として接して下さった。その態度はまったくあけすけで、いいことも悪いことも自身のそのままをさらけ出して見せてくれるのであった。思想やドグマに囚われることなくそよ風のように自由だった。そして我輩はそんな氏の自由さに触れるにつけ、氏の自由の背景にいつもぼんやりと掴みきれないひとつのイメージが浮かんでくるのをどうしようもなかった。それを敢えて言葉にすれば「孤独と死」であろうか。

 そう考えるなら氏の自由の限りなくしなやかで清々しかったことが腑に落ちるのである。

 ミケが縁の隅で初めて子供を産み、オッパイを吸う五匹の子猫の中に赤トラの毛色を見つけた時、我々は躊躇することなくその子に「太郎」という名を付けた。いうまでもなく北村太郎の太郎である。現在我が家には三匹の太郎がいるし、

 これからもっと太郎は増えるかもしれない。しかし、我輩の心の中に北村太郎の清々しい自由が生き続けるかぎり赤トラの猫には「太郎」という名を付け続けるだろう。

 


 

「おいしいお米できたよ」

江崎遊子

 我が家には居間の真ん中に今も北村さんの写真が飾ってある。少々埃の被ったその写真を訪れた来客が「どなた?」と聞く。そんな時、いつも鼻高々に北村さんのことを自慢している。北村さんが友人であることで少しは私も知的に見えるかもしれないなんていう浅はかな期待があるのだろう。時々持ち上げられて写真の中の北村さんは迷惑だろうか。いい加減なことやっているね君、なんていいながら笑われそうだけど、そんないい加減さも多分許してくれるに違いない。

 私たちの粗雑な結婚生活が始まった時、怪しい友人たちの中に大きな存在感とともに北村さんがいた。うどんをゆでる時には打ち水を入れるんだよ君。ちょっとした言葉の端に「東京」を感じさせるものがあった。浅草のそば屋さんの息子だったと聞くし、麺類に関しては一家言持っていたと思う。うちの人はよく北村さんの住まいにお邪魔しては麺類をご馳走になっていたし、夏の花火大会の時には、二十や三十も年の離れている私たちを集めていつも冷やし中華を作ってご馳走して下さった。具は時に十一種類もあった。丁度、北村さんのアパートの窓から花火が見えて、タマヤー! だのミョウミョウ! だのとにかく賑やかに夏の夜が過ぎていった。

 北村さんには私たちのもう体験することのない日本人の暮らしのにおいのようなものを感じることがあった。もう失われてしまったのか、失われつつあるのか、そこのところはよく分からないけれど、小説でしか味わえないような日本の文化の香りといったら大袈裟だろうか。

 当時、我が家には重度の障害を持った長男と一年に満たない次男がいて、彼らをあやす時の北村さんが特に好きだった。両手の指を思いっきり広げて両耳のところへ持っていき、フィーリックスちゃん! お利口ネコちゃん! とおどけて見せると次男は泣くのをピタッと止めて、不思議そうな顔をして北村さんを見つめていた。子供の顔を両手に挟んで持ち上げ東京見物というのも得意だった。そのうちハーモニカ演奏も始まる。♪ちいいさな きいっさてんで ああったときのふたーりは おちゃとけーきをまえーにしーて ただだまっていたっけねー♪ 「小さな喫茶店」というのが北村さんの十八番だった。いつの間にかよく集まる仲間もできて一緒にご飯を作って食べた。

 そんな暮らしが何年続いただろう、突然、横浜から離れて能登半島の輪島に移住するという話が出てきた。多分私たちにとってはごく自然な流れだったと思う。私たち一家が友達に見送られ、関東地方から安房峠を越えて北陸の田舎に引っ越してきたのは十六年前の春のことだった。大都市横浜から一変して人口二百人あまりの過疎の村での慣れない稲作や子供との付き合いにわっせわっせと必死なものがあった。食糧を自給するというすっかり新しい暮らしにぼんやりと夢も広がっていった。私たちの家の周囲は雑木林で秋は紅葉だし、冬は雪に覆われて真っ白になるし、日々変わる新緑の移ろいもつぶさに見ることができて退屈する暇がなかった。そんな日々の暮らしのことを手紙にしたためて北村さんに送ったことがある。暫くして返信が届いた。丁度、親友の鮎川信夫さんが亡くなられた直後で何ともいえない深い欠落感のようなものが伝わってきた。私にとって予測もしなかった新しい感じの北村さんにその時出会ったような気がした。どーんと低く震えながらそういう手紙を私に書いてくれたことがどこかで妙に嬉しかった。

 いつだったかはっきり記憶してないが、あの時すでに再生不良性貧血を発病されていたと思う。横浜のアパートから北村さんが鎌倉に移られて間もなくのことだった。私たち一家がその鎌倉の家にお邪魔したことがある。山積みになった本にお日さまが当たり明るく風通しのよい家には何かしら新しいにおいがあった。窓から海も見えてこれからここで過ごされるのかと思うと他人事ながら嬉しいような気がした。どこから見ても文句の付けようのない日、そんな忘れられないような日がきっと生涯に何日かあると思う。私にとってその日はさらさらと身体中に瑞々しい風が吹いてとても心地よい一日だった。

 北村さんはお米にはこだわりがあって、確かコシヒカリを買って食べていたと思う。「ゆーこさん」と呼ぶので台所を覗いたら、茹で上がったばかりの小松菜のおひたしと真っ白いご飯が器に盛られてあった。「ぼくは朝ご飯はこれで充分なんだ」とおいしそうに食べていた。自分で野菜やお米や味噌を作るようになって私のおいしいもののイメージが随分変わってきていた。大事なのは素材と空気と水。しかも、料理の中心はご飯だと思っていて、ご飯がおいしければ食事の八割は成功といえる。そんな思いもあってこれだけで充分といえるシンプルさに妙に納得できるものがあった。輪島に引っ越してほぼ十六年になる。その間ずっとお米を作ってきて今年ももうすぐ稲の種蒔きをする。自分たちで作っているという思い入れもあって私たちの完全無農薬米は今では自慢できるとてもおいしいお米だと思っている。

 北村さんが不治の病におかされて自分の死とどう向き合っておられるのか思い巡らす余裕もなく相変わらず、わっせ、わっせと暮らしていた。北村さん危篤の報を受けたのはその年の十月の終わり頃だったと思う。取るものも取り敢えずすぐに東京に向かった。あの当時まだ安房トンネルができておらず旧道の険しい峠を越えねばならなかった。曲がりくねった道に酔いそうだった。一時、北村さんのことをすっかり忘れそうなくらい見事な紅葉で特に頂上付近のカラマツの透けるような黄色が目に沁みた。それまでどこかに突き上げるような緊張感があったのがホッとほぐれた瞬間だった。東京虎ノ門病院についた時、北村さんの意識はすでにないように思われた。うちの人が「えざきだよ、きたむらさんわかるか!」と大きな声で語りかけると顔が微かに動いたようだった。聞こえているかもしれないと思った。私は北村さんの手に触り思わず「きたむらさん、おいしいおこめができたよ」といってしまった。クスッと笑い声が漏れるような全くその場にそぐわない言葉だったと思う。おいしい山水で新米を炊いて、炊き立てご飯の塩にぎりに私が畑で作った小松菜のおひたし。北村さんはきっと、こりゃ、うまい、と褒めてくれるに違いなかった。

 今五十四歳の私だが、あと何回お米を作れるだろうか。田んぼ仕事ができることがありがたい。何よりご飯が食べられることがありがたい。雑木林の燃えるような紅葉を眺めながら我が家の縁台で北村さんと一緒にご飯、食べたかったなあ。

 


 

ショート・ショート「腰越の奥様」

伏本和代

 「これは、あの腰越の奥様のものなんですよ」

という声に、ピタリとざわめきが止んだ。

 満面の笑みで、ふじむらの主人は、畳の上に着物を広げた。沖縄の小さな村でだけ織られているたいへんな希少価値の花織りの着物。

 「これは、一、二度お召しになっていますがね。なに、腰越の奥様は、それはもうたくさんお持ちですから、こんな高価な着物でも何度もお召しになりません」

 ふじむらの主人が、うやうやしくたとう紙から取り出した「腰越の奥様」の着物を、三人の中年女性客が、固唾を飲んで見つめている。

 ここは、小町の裏通りにあるリサイクル着物「ふじむら」の店兼自宅なのであった。和室の八畳間には、大きなスチールの棚が置かれていて、何十枚もの色とりどりの着物が重なっている。

 ふじむらの主人は、長く呉服の商いをしていたが、着物離れの時勢でたちゆかず、店を畳んでリサイクル着物を扱うようになった。つまり、個人の箪笥の肥やしとなって眠っているような着物を、ふじむらが仲介となってほしい人に安く譲るという方式である。

 確かに着物を着る人は少なくなったが、着物好きの女は脈々と存在し続ける。着物好きの女に理屈はない。ただひたすら好きなのである。絹のしっとりとした手触りが好き、身にまとわりつく肌触りが好き。

 そんなこんなで、その手の女たちが、この「ふじむら」をひっきりなしに訪れ、ある程度枚数が揃うと目が肥えて、今は出せない色合い技術で織られた年代物、希少価値に目がいくようになる。ふじむらの主人は、客のニーズに応えるために、どっさりと価値ある着物を箪笥に眠らせた奥様を探すのに必死だ。しかも身元のしっかりした、長生きしている人の着物であれば申し分ない。買う方の気分が違うのだ。

 その中でも、「腰越の奥様」は、ピカ一のブランドだった。出てくる着物が群を抜いてすばらしかった。趣味の極みとしかいいようがない凝った作品で、それがひとつも嫌らしくない。裾回しに小さな人形の手刺繍がほどこされた着物。居座機の結城紬、古代ちりめん、今はとれない山繭の着物。

 腰越の奥様は、御齢八十歳になられて、箪笥七棹、二百枚の着物を徐々に処分しているのだが、いまだに未練の残るものもあり、少しずつ少しずつ出す。

 奥様は名門の家のお生まれで、資産家に嫁ぎ、家が三軒建つほどの着物道楽をなされた。息子が二人いて、今は長男ととても幸せに暮らしている。

 「いったい、腰越の奥様ってどんな感じの人かしら」

 女たちがいくら鎌をかけても、ふじむらの主人は名前と容貌を明かさない。それはこの仕事のルールだった。売った方と買った方、どこでばったり出くわさないとも限らないからだ。

 その日、腰越の奥様の着物は売れなかった。

 女たちが帰った八畳間で、ふじむらの主人はぼんやりととろりと艶光りした沖縄の花織りの着物を眺めている。そしてそれに重なる持ち主の白い顏。

 腰越の奥様は、本当は腰越にはいない。一年前に、家を売り払い一家離散した。家が三軒建つほどの着物道楽が、家を一軒つぶしたことになる。資産家でも名門の出でもなかったが、物を見る目は一流だった。

 百枚ちかい着物を、借金して引き取った。それはふじむらの倉庫に保管してある。一家離散した人の着物とは言えないまま、いまだに「腰越の奥様ブランド」は生き続けている。

 「ほら、ふじむらさん、薄紫の墨流しの着物、あれはどんな方のところにお嫁入りしましたの?」

 ふじむらの主人が一度だけ見舞いにいった老人ホームのベッドで、奥様は手放した着物の話ばかりした。ふっくらとした顏に切れ長の目がお雛様を思わせた奥様は、この数年ですっかり面変わりした。それでもまばらな髪の毛をきれいになでつけ、枯れ木のような腕を胸の前であわせて、うっとりと首を傾げる。しわしわの落ち窪んだ目には、今も何百枚もの着物が踊っているのだ。

 


 

「現代詩の奇蹟笹原常与の詩集『假泊港』

嶋岡 晨

 純粋で靱い精神の、長い年月に及ぶ持続を、このように明確な様態で見るのは、極めて稀なことだ。「貘」の旧友笹原について、詩「木」を引用しつつ、かつてこう書いたことがある。

 「……こうした、独自のモダーンな形而上学的感性は、しかし〔略〕……表現を、上滑りの幻想にながすことなく、生活現実にしっかり腰を据えた〈認識〉に繋ぎつつ、つねに『良心』――詩的モラルに恥じないものとした。年齢をかさねるごとに、無理なくその〈木〉的感性は純潔性をたもちながら、成長した。現代詩のひとつの奇蹟といっても、おかしくはない」(詩学連載「わたしの現代詩人事典」)

 第一詩集『町のノオト』(昭33、国文社)第二詩集『井戸』(昭38、思潮社)ですでに充分、優しくも凛然と確立・確保されていた、笹原常与の世界――それが核心をほとんど変えず、四十年をへて表現内質に少しの損傷もなく、いわば純潔な若者の感性の鮮かさを保って、第三詩集『假泊港』に繋がっている事実に、驚嘆しない者がいるだろうか。

 今日の現代詩の奇蹟、とこれを形容して大げさとは思えない。変動汚濁のはげしい詩界流行のさなかに立って、おのれの個性を保つこの靱さ。それも一つのパタンの鈍い反覆ではなく、たっぷり時間にもまれ必要な新しさを自覚しながらの成熟そのもの、自信にみちた独自の入念な〈方法〉の発展なのだ。

 「在るべき『自分』にむかって/高く 高く昇ってゆく」その際限のない繰り返し(「エレベーター」)が、じつは日々の微妙な革新であり、固定的反覆ではなく優雅に流動的な「生きることの意味と/『在る』ことの理由」の刻々の探索であること(「浚渫船」)に気づいた読者は、粛然と戦慄を覚えざるを得まい。

 この詩史上に燦然たる孤独の記念碑が、書肆港の人の名を不滅とするのも確かだろう。

 


 

鎌倉文学の小径 泉鏡花「星あかり」抄

井上有紀(編)

 もとより何故にといふ理はないので、墓石の倒れたのを引摺寄せて、二ツばかり重ねて台にした。

 其の上に乗つて、雨戸を引合せの上の方を、ガタく動かして見たが、開きさうにもない。雨戸の中は、相州西鎌倉乱橋の妙長寺といふ、法華宗の寺の、本堂に隣つた八畳の、横に長い置床の附いた座敷で、向つて左手に、葛籠、革鞄などを置いた際に、山科といふ医学生が、四六の借蚊帳を釣つて寝て居るのである。

 声を懸けて、戸を敲いて、開けておくれと言へば、何の造作はないのだけれども、止せ、と留めるのを肯かないで、墓原を夜中に徘徊するのは好心持のものだと、二ツ三ツ言争つて出た、いまのさき、内で心張棒を構へたのは、自分を閉出したのだと思ふから、我慢にも恃むまい。……

 冷い石塔に手を載せたり、湿臭い塔婆を掴んだり、花筒の腐水に星の映るのを覗いたり、漫歩をして居たが、藪が近く、蚊が酷いから、座敷の蚊帳が懐しくなつて、内へ入らうと思つたので、戸を開けようとすると閉出されたことに気がついた。

   (略)

 門外の道は、弓形に一條、ほのぐと白く、比企ケ谷の山から由比ケ浜の磯際まで、斜に鵲の橋を渡したやう也。

 ハヤ浪の音が聞えて来た。

 浜の方へ五六間進むと、土橋が一架、並の小さなのだけれども、滑川に架つたのだの、長谷の行合橋だのと、おなじ名に聞えた乱橋といふのである。

 此の上で又た立停つて前途を見ながら、由比ケ浜までは、未だ三町ばかりあると、つくぐ然う考へた。三町は蓋し遠い道ではないが、身体も精神も共に太く疲れて居たからで。

 しかし其まゝ、素直に立つてるのが、余り辛かつたから又た歩いた。

 路の両側しばらくのあひだ、人家が断えては続いたが、いづれも寝静まつて、白けた藁屋の中に、何家も何家も人の気勢がせぬ。

 其の寂寞を破る、跫音が高いので、夜更に里人の懐疑を受けはしないかといふ懸念から、誰も咎めはせぬのに、抜足、差足、音は立てまいと思ふほど、なほ下駄の響が胸を打つて、耳を貫く。

 何か、自分は世の中の一切のものに、現在、恁く、悄然、夜露で重ツくるしい、白地の浴衣の、しほたれた、細い姿で、首を垂れて、唯一人、由比ケ浜へ通ずる砂道を辿ることを、見られてはならぬ、知られてはならぬ、気取られてはならぬといふやうな思であるのに、まあ!廂も、屋根も、居酒屋の軒にかゝつた杉の葉も、百姓屋の土間に据ゑてある粉挽臼も、皆目を以て、じろじろ睨めるやうで、身の置処ないまでに、右から、左から、路をせばめられて、しめつけられて、小さく、堅くなつて、おどくして、其の癖、駆け出さうとする勇気はなく、凡そ人間の歩行に、ありツたけの遅さで、汗になりながら、人家のある処をすり抜けて、やうく石地蔵の立つ処。

 ほツと息をすると、びようくと、頻に犬の吠えるのが聞えた。

   (略)

 処へ、荷車が一台、前方から押寄せるが如くに動いて、来たのは頬被をした百姓である。

 これに夢が覚めたやうになつて、少し元気がつく。

 曳いて来たは空車で、青菜も、藁も乗つて居はしなかつたが、何故か、雪の下の朝市に行くのであらうと見て取つたので、なるほど、星の消えたのも、空が淀んで居るのも、夜明に間のない所為であらう。墓原へ出たのは十二時過、それから、あゝして、あゝして、と此処まで来た間のことを心に繰返して、大分の時間が経つたから。

 と思ふ内に、車は自分の前、ものの二三間隔たる処から、左の山道の方へ曲つた。雪の下へ行くには、来て、自分と摺れ違つて後方へ通り抜けねばならないのに、と怪みながら見ると、ぼやけた色で、夜の色よりも少し白く見えた、車も、人も、山道の半あたりでツイ目のさきにあるやうな、大きな、鮮な形で、ありのまゝ衝と消えた。

 今は最う、さつきから荷車が唯辷つてあるいて、少しも轣轆の音の聞えなかつたことも念頭に置かないで、早く此の懊悩を洗ひ流さうと、一直線に、夜明に間もないと考へたから、人憚らず足早に進んだ。荒物屋の軒下の薄暗い処に、斑犬が一頭、うしろ向に、長く伸びて寝て居たばかり、事なく着いたのは由比ケ浜である。

 碧水金砂、昼の趣とは違つて、霊山ケ崎の突端と小坪の浜でおしまはした遠浅は、暗黒の色を帯び、伊豆の七島も見ゆるといふ蒼海原は、さゝ濁に濁つて、果なくおつかぶさつたやうに堆い水面は、おなじ色に空に連つて居る。浪打際は綿をば束ねたやうな白い波、波頭に泡を立てて、どうと寄せては、ざつと、おうやうに、重々しう、飜ると、ひたくと押寄せるが如くに来る。これは、一秒に砂一粒、幾億万年の後には、此の大陸を浸し尽さうとする処の水で、いまも、瞬間の後も、咄嗟のさきも、正に然なすべく働いて居るのであるが、自分は余り大陸の一端が浪のために喰缺かれることの疾いのを、心細く感ずるばかりであつた。

 妙長寺に寄宿してから三十日ばかりになるが、先に来た時分とは浜が著しく縮まつて居る。町を離れてから浪打際まで、凡そ二百歩もあつた筈なのが、白砂に足を踏掛けたと思ふと、早や爪先が冷く浪のさきに触れたので、昼間は鉄の鍋で煮上げたやうな砂が、皆ずぶぐに濡れて、冷こく、宛然網の下を、水が潜つて寄せ来るやう、砂地に立つてても身体が揺ぎさうに思はれて、不安心でならぬから、浪が襲ふとすたくと後へ退き、浪が返るとすたくと前へ進んで、砂の上に唯一人やがて星一つない下に、果のない蒼海の浪に、あはれ果敢い、弱い、力のない、身体単個弄ばれて、刎返されて居るのだ、と心着いて慄然とした。

 時に大浪が、一あて推寄せたのに足を打たれて、気も上ずつて蹌踉けかゝつた。手が、砂地に引上げてある難破船の、纔かに其形を留めて居る、三十石積と見覚えのある、其の舷にかゝつて、五寸釘をヒヤくと掴んで、また身震をした。下駄はさつきから砂地を駆ける内に、いつの間にか脱いでしまつて、跣足である。

 何故かは知らぬが、此船にでも乗つて助からうと、片手を舷に添へて、あわたゞしく擦上らうとする、足が砂を離れて空にかゝり、胸が前屈みなつて、がつくり俯向いた目に、船底に銀のやうな水が溜つて居るのを見た。

 思はずあツといつて失望した時、轟々轟といふ波の音。山を覆したやうに大畝が来たとばかりで、――跣足で一文字に引返したが、吐息もならず――寺の門を入ると、其処まで隙間もなく追縋つた、灰汁を覆したやうな海は、自分の背から放れて去つた。

 引き息で飛着いた、本堂の戸を、力まかせにがたひしと開ける、屋根の上で、ガラぐといふ響、瓦が残らず飛上つて、舞立つて、乱合つて、打破れた音がしたので、はツと思ふと、目が眩んで、耳が聞えなくなつた。が、うツかりした、疲れ果てた、倒れさうな自分の体は、……夢中で、色の褪せた、天井の低い、皺だらけな蚊帳の片隅を掴んで、暗くなつた灯の影に、透かして蚊帳の裡を覗いた。

 医学生は肌脱で、うつむけに寝て、踏返した夜具の上へ、両足を投懸けて眠つて居る。

 卜枕を並べ、仰向になり、胸の上に片手を力なく、片手を投出し、足をのばして、口を結んだ顏は、灯の片影になつて、一人すやくと寝て居るのを、……一目見ると、其は自分であつたので、天窓から氷を浴びたやうに筋がしまつた。

 ひたと冷い汗になつて、目をAき、殺されるのであらうと思ひながら、すかして蚊帳の外を見たが、墓原をさまよつて、乱橋から由比ケ浜をうろついて死にさうになつて帰つて来た自分の姿は、立つて、蚊帳に縋つては居なかつた。

 もののけはひを、夜毎の心持で考へると、まだ三時には間があつたので、最う最うあたまがおもいから、其まゝ黙つて、母上の御名を念じた。――人は恁ういふことから気が違ふのであらう。

〈妙長寺から由比ケ浜へ〉

 明治三十一年に初めて発表されたとき、「みだれ橋」と名づけられたこの短編は、鏡花二十六歳のときの作品である。作中「土橋が一架、並の小さなのだけれども」と描写される「乱橋」は、今も材木座の住宅街にひっそりと残っている。十八歳のとき、鏡花は尾崎紅葉に弟子入りしたい一心で故郷の金沢から上京するが、訪ねる勇気の持てぬまま一年を過ごす。この物語の舞台となっている妙長寺に友人の医学生と寄宿したのは、その間の出来事だ。

 夜中に寺を閉め出された「私」は、仕方なく海への道を歩き出す。月も星も雲もなくただひたすらに鼠色の世界。重くけだるい肉体を引きずり歩く「私」は、異常な感覚世界のなかに浜へたどり着くが、不気味な気配に満ちた海からは巨大な浪が迫る。息をするのももどかしく寺へと駆け戻る「私」は蚊帳のなかを覗きこみ、そこに「私」を発見する。すると瞬時に視点の主体は眠る「私」に翻り、もうひとりの「私」の姿をもとめて蚊帳の外に目をこらすのだ。

 この「ふたりの私」の出現は、実は、墓石を〈二ツ〉重ねてその上に乗るという冒頭場面から予言されている。ぬれたような空気、聞こえる浪の音と聞こえない荷車の車輪の音、夜の色、砂の冷たさ……と、触覚に忠実に語られる物語の上に、「ガタガタ」「ずぶずぶ」「びょうびょう」と二重の言葉が無数に折り重ねられることによって、主人公の「私」の姿も、読んでいるこの「私」の輪郭さえもが、幾重にもぶれてくる。迫りくる水を避けてよじのぼり、覗きこんだ難破船の内側から再びもうひとつの水に襲いかかられたとき、「私」にできることはもう、はだしのまま逃げ帰るのみだ。

 幻想、もしくは狂気。この物語を現実から遠ざけるのはたやすい。しかし、何もない闇夜からわらわらと立ち上がってくる、これらのことばの群れを、「私」なるものの所在のあやうさを襲うものとして体験しなければ、読む者としての、ほかならぬこの「私」は、ついにただひとりの「私」にさえ出会うこともない。

 


 

いをまちばし通信2「釈迦堂切通」

上野勇治

 釈迦堂切通に行くにはふたつの行き方がある。浄明寺(地名)方面と大町方面からである。鎌倉にながねん住んでいながら、釈迦堂切通に行こうとは一度も思ったことはないが、浄明寺の小高い山の麓のマンションに住んでおられるH先生と知りあうことができ、たまたまその機会に恵まれた。昨年の八月のことだった。いまさらそのことを書いてもという気はあるけれども、初めての釈迦堂切通はちょっとすごいところだった。

 空気の音がしないくらい暑いある日の午後、H先生宅を訪ねた。陽が木々の緑にまぶしく照り、時季外れの鴬が「ホーホケキョ」と啼いていた。

 用件を済ませてH先生宅を辞した後、ぼくは初めて道案内のとおり、近くの釈迦堂切通を抜けて大町の事務所に戻ろうと思った(それまではといっても、三回だけだが、地理に不案内なぼくはH先生宅を訪ねるときには大町から遠回りして行きも帰りも雪の下、浄明寺の道を選んだ)。

 アスファルトが途切れて、むき出しの石ころがごつごつとした山道を三、四分登っていくと、山を穿いた、高さ七メートルくらいの洞にでた。洞の前には崩落注意の立看があり、通交止めの柵がしてある。しかし、なんのことはなく通り抜けられた。洞内の右方の側面がくびれ平になったところに一メートルにみたない石塔が立ち、反対の側面にはちいさな凹みがあり、風化した石仏が数個積み重ねられてその前に賽銭が置いてあった。ここが釈迦堂切通だ。薄暗い洞は冷ややかで、現在から過って過去へ遡り、異界の霊気が漂っているような凄みがあった。しばらく立ちすくんでしまった。

 わたしちたちは何処から何処へゆくのだろう。はたして行き着く場所はあるのか。情けないことに、ぼくには「分からない」とこぼすしかない。穴を穿つ。穿って空の身をさらけ出し、滅びてゆくしかないのか。朽ちた石仏が笑む。

 洞を抜けると、陽がふりそそぎ青空があった。大町側の坂をおりる途中、洞を振り返ってみた。一度も来たことがないのに、どこかで記憶に残っている風景だった。

 ある映画のシーンが鮮明に浮かんできた。鈴木清順監督の映画「チゴイネルワイゼン」の、和服姿の大谷直子が坂をくだっていくシーンがあるが、その場所が釈迦堂切通の大町側ではないかと思った。