港のひと 001 抄

 

「星に想いを 心優しき人は幸なり」

島尾ミホ

 「写真をお送りします。天文学者の方が撮影したものです……青白い星雲がまとわりついているすばるを見ていますと、私はいつも、柔らかなガーゼの産衣にくるまれた赤ちゃんを思い出します……」。お人柄が偲ばれる心優しい詞《ことば》が添えられたすばるの写真を戴き、私はその日一日心豊かな想いに満たされました。時あたかも二〇〇一年新玉《あらたま》の年立ち返る初空月の初めのことでした。

 その晩私は亡夫島尾敏雄の写真を胸に抱いて、深更に及んでも尚星空を仰いでいました。見上げる天穹には、星雲の中に散開する牡牛座のすばるの星団、そして三千年も前の中国最古の詩集『詩経』にも書き残され、また古人が時刻と季節を知る証しとして尊んだ北斗七星、その他多くの星座が、悠久の時の流れのロマンを秘めて、神の恩寵を恵与するかのように輝いていました。足許には父がこよなく愛した、白、ピンク、真紅等の大輪の薔薇が星明かりに揺れていました。此処南の島は昼は白く明るく、夜は蒼く深く、更けゆくにつれて星は更に輝きを増します。星に想いを寄せ得る幸せを、私は幼い頃両親から授かりました。

 美しい星月夜には両親は幼い私の手を両方から引いて、色鮮やかな南国の花々が、甘く爽やかな薫りを辺り一面に漂わせている庭に降り立ち、星座を指して呼び名を教え、その星にまつわる物語を話してくれました。夏の夜空にたゆたう銀河の岸に佇む牽牛星と織女星が「河漢は清く且つ浅し 相去る復た幾許ぞ」と嘆いた物語や『三国志演義』での諸葛孔明が赤壁の戦いの折に、北斗七星に戦勝を祈願した史旧等、幼い私にも理解が及ぶ優しい語り口で語ってくれました。父はまた星物語に関連する漢詩を唐音でくちずさび聞かせました。「迢迢牽牛星 皎皎河漢女 ……河漢清且浅 相去復幾許 盈盈一水間 脈脈不得語」。言葉の意味は解らぬ乍らも、柔らかな父の唐音の漢詩は私の心耳に深く沁み透り、度重ねて聞くうちに、いつしか童謡でも習うかのように、唐音での漢詩を覚えていました。謹厳な父には珍しく時には家伝の刀を持ち、私には父手作りの木剣を持たせ、詩吟に合わせて剣舞を教えることもありました。

 すばるの写真を戴いてからそれ程日を措かずに「……人はいつしかいなくなりましても、その人と共に仰いだ星はいつまでも身近にあります……」と何時も乍らの床しい芳書を重ねて戴き、私は祭壇の島尾の写真の前に供えてから、読みあげて島尾に聞いて貰いました。島尾と共に仰ぎ見た羽子板星が思い出されて涙が零れました。

この御方からお便りを戴く度に、―心優しき人は幸なり―と諭した母の教えが思い出されます。

 その晩も私は島尾の写真と共に、明けの明星が東雲の空に輝き出す迄、庭のパパイヤの木の下に立ち、また濡れ縁にかけて星を仰ぎました。島尾生前には私達はよく一緒に星空を眺めました。そして過ぎ来し方の折々に仰いだ羽子板星に就いて語りました。殊に第二次世界大戦の折に、南の島で二人で眺めた星のことを話し合う時には、感懐がこもりました。当時日本軍は制空、制海の権を全く失い、敵機の来襲は昼夜の区別なく続き、砲弾や爆弾が処構わず炸裂していました。その戦場で束の間の逢う瀬に、二人で羽子板星を仰ぎ見る時には、刻はまさに「一刻値千金」でしたし、明けの明星が輝き始める惜別の時刻は憾めしく、その時、その時こそが、今生の別れと覚悟を決めての別れでした。

 あの時から半世紀以上の歳月が流れましたが、小さな星が羽子板の形にたくさん寄り集まっている羽子板星を見る度に、つい先頃のことのように思えてなりません。第二次世界大戦も終結に近い頃、島尾は奄美群島加計呂麻《カケロマ》島の呑之浦《ノミノウラ》という深い入江の奥に駐屯する、海軍特攻第十八震洋隊島尾部隊の隊長の任に在りました。私は特攻基地と岬をひとつ隔てた聚落の国民学校の教師をしていました。人の世の縁《えにし》は神の如何なる御旨《みむね》に依るものでしょう。明日をも知れぬ日日の命の特攻隊長の島尾と私は互いに心を寄せ合うようになりました。

 思い起こせばあれは昭和二十年八月上旬の、夜空の美しい晩でした。岬の塩焼小屋の側の浜辺に彼は腰をおろし、私は何時ものように少し離れたうしろに正座をしていました。深夜の磯浜の難路を岩踏み越えて辿り着き、漸く会えても、言葉を交わすことは少なく、長い間黙って海を見ていました。「広島に特殊爆弾が投下され、広島市は壊滅したそうです。広島の土地には百年間は草も木も生えない程の威力ある爆弾だそうです」。独白のように言って彼が空を見上げ、「今夜は羽子板星が殊に耀いて見えますね」と言ったその時、突然特攻基地の方向に中天高く紅蓮の火炎が立ち上り、万物諸共に砕け散るかと思える爆発音が轟き渉りました。特殊爆弾の投下!と私は思いました。彼は立ち上がり「隊へ帰ります、あなたもお帰りください」と言うと駆け出しました。特攻戦出撃!と私は思いました。今にも島尾部隊の全特攻艇が隊列を組み出撃して征くのではないかと、基地の方を見つめましたが、その気配はなく、岬にも別段変ったことも起こらず、渚に寄せ引く小波が単調な調べを優しく繰り返しているだけでした。時が長く感じられました。見上げる天上には人の世のことには係わりなく、羽子板星がダイヤモンドの寄り集まりのようにちかちかと瞬いていました。彼は特攻戦で壮烈に散華し、私は短剣を我が身に押し当てて命の綱を絶ち、彼の黄泉路の旅の供となって、二人共々に帰天の際には、二人の魂は羽子板星にお加えくださいと祈りました。涙で潤む目に羽子板星も泣いてくださっているように見えました。夜の内海《うちうみ》は山中の湖水さながらに波ひとつ立たぬ静寂につつまれ、私もまた明鏡止水の心境でした。

 大君の醜《しこ》の御楯《みたて》と征《ゆ》き給う加那《かな》(吾脊子)

 ゆるしませ死出の御供《おんとも》

 広島に特殊爆弾が投下された三日後に、長崎の上空にも特殊爆弾が炸裂しました。それは普通の爆弾の数万倍のエネルギーを持つ、原子爆弾とのことでした。この長崎被爆の数日後に戦争は終りました。

 酷烈な戦争を身近に体験した私には、戦場での日々を思い起こす度に、平和の世に在ることの有り難さが心身に沁みます。殊に美しい星月夜には、爆弾に怯えることもなく、心静かに亡き父、母、夫を偲びつつ星に想いを寄せ得る幸せが、しみじみと胸裡にひろがって参ります。

 


 

「本の港へ」

井上有紀(編集者)

 自分の歩く姿や立つ姿を自分で意識することは時々あるのだが、「本を読んでいる自分」の姿を思い浮かべることができない。われに返ってそのような自分を意識する瞬間にはもう、私は本を読むことをやめているからだ。

 「本を読んでいる自分」というのは多分、あくびをしている時のように呆けているか、泣いている時のように野蛮か、ものを食べている時のように恥ずかしげがないに違いない、と思う。いずれにせよ知的な雰囲気からはほど遠い。

 そこで私はとりあえず、本の細部への愛情を表明することによって、本に報いたいと企てる。手にしたときの重みの正しさや、めくる指の動きに素直にしたがうページの柔らかさや、紙の白さと活字の黒さの作用と反作用、それから、はなぎれの色やカバーの折れ具合、かすかなインキの匂いや奥付のたたずまいや、そんなものひとつひとつを確かめる。そういう時の私は、はがねのように冷静だ。

 私は人が本を読む姿を見るのが好きだ。行を追うごとに跳ね上がるまつげの動きを見ていると、ことばがその人の胸にしみこんでいく時の湿った音が聞こえるような気がしてくる。ことばに打ちのめされる快感を思って、思わず目を閉じてしまう。皮膚一枚の近さまで、本に立ち向かってゆこうと、そんな勇気さえ湧いてくる。 

 


 

「鎌倉私跡抄」

保昌正夫

 鎌倉に港の人が開業すると聞いたとき、この社名は実朝に拠っているのか、と想った。すこし前に日本近代文学館で太宰治の作品集の複刻をすることになり、そこで『右大臣実朝』の解説が回ってきて、この書き下ろし作品を読み直していたから、かもしれない。

 この作の終わりの方に渡宋の計画をえがいた実朝が由比が浜に巨きな船を造ることが出てくる。鎌倉の浜から出港する夢。それが港の人の夢でもあろうか、と思い取ったのだ。これは一人合点の、それこそ妄想でしかなかったけれど、『右大臣実朝』は太宰の労作で嘉しとしていたから繰り返し読むことで、ついついそんな誤解をしてしまったのだ。

 材木座海岸のテントハウスで開業披露の会があった折にも、そんなおしゃべりをしてしまった。ちなみに私が読んだ『右大臣実朝』は敗戦の翌年、昭和二十一年発行の怪しげな本で、太宰の戦後の本には粗末な造りのものが多い。それでいて読まれたのだ。なお実朝については中野孝次『実朝考』が、ちかごろ講談社の『文芸文庫』に加わり、そこにも「巨船」建造のことが出てくる。

 鎌倉の浜へ初めて行ったのは昭和四年(一九二九年)の夏、幼稚園に入った年。由比が浜の海水浴場で低空をゆく飛行船ツェッペリンを見た。まさに空飛ぶ怪物で、声をのんだ。浜に近いポンプ屋さんに数日、避暑にいったときのこと。鎌倉の浜のツェッペリン号は忘れられない。

 小学校では六年生のときの国語読本に、

  七里が浜のいそ伝

  稲村崎名将

  剣投ぜし古戦場

に始まる「鎌倉」が載っていた。しかし、この唱歌はもっと早くから歌っていたと憶う。明治のころからの文部省唱歌だったらしい。大正琴の伴奏が似合うようなメロディだった。

 旧制中学一年生になって、山岳部の催しの新入生歓迎ハイキングで湘南アルプスへ出かけた。金沢八景のあたりから山へ入って行き、声をかけあいながら若葉の細道をたどって、鎌倉へ下りてきた。それでも途中、深山幽谷めいたところもあって、「アルプス」気分を少々味わった。

 その山中で入口にカーテンをかけて、穴ぐら暮らしをしているのを見かけて、びっくりした。鎌倉の山にはそういう人たちがいたらしい。先ごろ、昭和十年代初めの十一谷義三郎の小説を読んでいて、世間から離れて湘南の山で穴居の「ユートピア」生活をしていた人があったらしいことを知った。ついで書きだが、太宰治が鎌倉八幡宮の裏山で縊死をはかったのが昭和十年である。

 大学での卒業論文(横光利一)をみてくださったのは稲垣達郎先生であった。先生の墓は鎌倉の山を登りつめた位置の広い霊園に在り、亡友の手塚昌行(泉鏡花についての遺著がある)と同行して、そのお墓を探しあてた。そんなことも憶い出される。

 港の人のSさんにはパリから友人がきたとき、鎌倉を案内してもらった。「極楽寺坂越え行けば/長谷観音の堂近く/露坐の大仏おはします」(「鎌倉」)の大仏さまを久しぶりに仰ぎ見た。鎌倉八幡宮の桜が満開であった。

 Sさんからはときどき手みやげに鎌倉の白子干しをいただく。これは大根おろしに載せると、すこぶる佳味。

  巨き船ならずとも良し港の人

  佳《よ》き書《ふみ》積みて漕《こ》ぎつぎてあれ

 


 

「若宮大路に咲く栴檀の花」

本多順子

 鶴岡八幡宮の源氏池や段葛の桜が終わると、やがて鎌倉は紫陽花の季節となる。長年この町に住んで、四季折々に咲く花を随分楽しんだつもりだったけれど、若宮大路に咲く栴檀の花を初めて見た時のことは忘れられない。

 買い物の帰り、ふと見上げた六月の空に、ひと塊の雲のように淡い紫色の花が咲いているのを見つけた。鎌倉市立第一小学校前の、一段高くなっている歩道での、五年前のことである。

 家に帰って図鑑を調べると栴檀の花だとわかった。古名はあふち(楝・オウチ)。それなら万葉集にあったと思うのだが、どんな花なのか考えたこともなかったなと、不勉強さを思ったりした。が、なによりも、あの満開の薄紫の花に、それまで気がつかなかった自分に驚いてしまった。

 相当の大木だから、私が第一小学校に通っていた四十年ほど前にも、栴檀の木はあったはずだ。以来、その木の下を、何百回、何千回、通り過ぎたことだろう。

 それからは毎年、この栴檀の花が咲くのが待ちどおしくなった。真っ青な空を透かして、明るい色で咲く花を、真下から見上げるのもいい。垂れ込めた空から降る雨に、消え入りそうな風情もいい。

 でも、私が一番好きなのは、よく晴れた日の夕暮れである。まだ残光があたりに漂っている頃、その光を集めて、大きく拡げた枝枝にふんわりと薄絹を掛けたように咲いている光景に見とれてしまう。

 栴檀の花の下を過ぎて海へ向かうと直ぐに、大きなダブの木がある。木下はすでに夜の闇で、その中に黒々と大きな宝篋印塔が立つ。このあたり一帯は中世の血なまぐさい歴史が伝わる所である。暮れ方の栴檀の花にことのほか心ひかれるのは、なにかそのことと係わりがあるのだろうかと思ってみたりする。

  鎌倉の大路に咲きて知られざるおうちの花は夕暮れひかる

 


 

「五月の朝」

北村太郎

コップがひかる

水がこぼれる

バターをパンに塗る

コーヒーいい匂い

新聞をつぎつぎに読む 放火!

愉快犯とは まったくすばらしい単語だ

三方の窓のそとでヒヨドリたちが

あまい声で啼くのもすてきだ

うん開港記念日だな あさって

ブラスバンドいっぱいの陽を浴びて

塩っからい堤防のマーチを街じゅうに轟かすだろう

とっても痛いめにあうところだったな

やました公園で この冬の夜

セコい中学生どもに蹴ころされたかもしれないのだぞ

茫々たる髪と過去をきげんよく整えよう

九時だ『悪の華』だ

この安藤元雄訳を午前に読む習慣はなんたる快楽!

どこかにあった一行〈いとしい女《ひと》は裸体だった

しかも私の心を知りぬいて〉

コーヒーいい匂い

ヤバいおもい

さんさんと 日は昇りつつある

いかなる情念にとりこまれようともゆるせ

かなたにひかる海よ

     『笑いの成功』書肆山田刊より

 


 

いをまちばし通信1「魚町橋」

上野勇治

 魚町橋と書いて、「いを(うお)まちばし」と読む。JR鎌倉駅から若宮大路に出て右に折れ、一〇〇メートルも行かないうちにY字型に岐れた道を安養院方向に歩くと大町四ツ角の小さな交差点に当たる。それを右へ材木座に向かってくるりと曲がり緩やかな坂を下ったところに魚町橋が架かっている。五メートル位の朱色の欄干の下を滑川に通じる疎水がちろちろと流れている。その小さな橋を渡った道の右方に史跡碑があり、魚町の由来が説かれている。それによると、古くはこの大町大路は商店街で米屋や魚屋が軒先を連ねて賑わい、それで米町、魚町と呼んだとある。『東鑑』にその名が載っているというが、いまはこの辺りに魚屋は一軒も見当たらない。

 魚町橋から七、八歩ほど歩いた左方にある古いアパートの一室をわたしたちは借りている。換気扇が一日中哀しいほどにぶんぶんとうなっている玄関口の部屋をぬけると、そこがいちおうの仕事場〈三人の隠し砦〉だ。

 おかげさまで、この春で文字通りの小さな社はまる四年を迎えることができました。深謝。資金も何もないまっさらな状態からの出港ではあったけれども、出会える人にあつく支えていただき、人と人との繋がりのなかから、少なからず一冊一冊かけがえのない書物を生み出せてこれた。そして経済事情の苦しさはいまも変わらないが、縁あっての人の出会いこそが小社の行く先をかろうじて指し示していると思っている。反省と自戒を込めて、わたしたちの待ったなしの書物をつくる〈熱〉がいつも問われている。

 わたしにとって書物とは情報のメディアというよりは、血を流し、涙をうるうるさせ(あるいは号泣)、うめき、祈り、歓び、明日をおもっているなまみの人間の貌が顕にされるメディアだと思っているし、そのような書物を手がけていきたいと念じている。学術文献においても論文、資料のもつ温度を大切にしたい。

 鎌倉は田舎だ。昔、血なまぐさい合戦があった場所だ。わたしたちにうってつけのところかもしれない。魚町橋、六月に入ってある一日か二日、上流から迷ってくるのか蛍が五、六匹ちらほら飛び交う。