第14回 無題(ナンセンス)

無題(ナンセンス)

             吉原幸子

 風 吹いてゐる
 木 立ってゐる
 ああ こんなよる 立ってゐるのね 木

 風 吹いてゐる  木 立ってゐる 音がする

 よふけの ひとりの 浴室の
 せっけんの泡 かにみたいに吐き出す  にがいあそび
 ぬるいお湯

 なめくぢ 匍ってゐる
 浴室の ぬれたタイルを
 ああ こんなよる 匍ってゐるのね なめくぢ

 おまへに塩をかけてやる
 するとおまへは ゐなくなるくせに そこにゐる

   おそろしさとは
   ゐることかしら
   ゐないことかしら

 また 春がきて  また 風が 吹いてゐるのに

 わたしはなめくぢの塩づけ  わたしはゐない
 どこにも ゐない

 わたしはきっと せっけんの泡に埋もれて流れてしまったの
 ああ こんなよる

(一九六四年/『幼年連祷』(歴程社)収録)
編注:タイトルの(ナンセンス)は、原典では「無題」のルビとなります。

 

 建物と建物の間でいったん屋外へ出る。整備された花壇のかたわらに、入院着の老若男女がぽつりぽつりと腰かけている。ふたたび建物へ入ると、小さな部屋の並ぶ廊下がまっすぐに伸び、窓からは四方を囲まれた、中庭のような場所が見える。中央には湾曲した幹だけの低木が育ち、乾いた土には雑草がまだらに生えている。外壁には陽が射すのに、中庭には明るい印象がない。部屋と庭に挟まれるように歩きながら、次第に自分が名も声もなく、何らかの薄っぺらなひとひらとして、リノリウムの床に剥がれ落ちていくようなイメージが浮かぶ。階段を上がり、インターホンを鳴らすと鉄扉のひらく病棟には、さまざまな精神の疾患をかかえる人たちがいて、当時は木曜を面会の日と決めてかよっていた。

 死にたいと自ら願う人間に、かけるべき言葉とはどのようなものかを、長いこと考えている。「死にたい」とはっきり言われたのだったか、数々のふるまいから言われたような気がしているだけなのか、確かめる術もないが、潤んだような夏の夜、暮らしていたアパートの、すぐ角にあったコンビニエンスストアの光が、ハレーションを起こしたようにそばにある公衆電話を白く包んで、そのとき答えをもたなかった自分を、これからどう取り繕って生きていくのが正しいのか、思案していた。最近のニュースで見かけた傷害事件が、あのアパートのそばで起きたと知り、調べるとコンビニの画像が現れた。ストリートビューの撮影時期は、ちょうどコンビニの前で七年前と二年前に分かれており、画像上の往路にはあるそば屋が、復路では小ぎれいなサロンに早変わりするのを、自分の記憶の曖昧さに照らすように、くりかえしクリックして眺めた。どちらの景色にも公衆電話は存在しなかった。

 そのアパートの浴室に蝸牛を見たとき、まるきり吉原幸子だと思ったこともおぼえている。ユニットバスのつるりとした乳白色の壁を這う、小さな蝸牛はどこから現れたのか。詩人の詩作でもっとも知られていると言ってもいいこの詩に、描写はないのにいつも指先を想起する。石鹸を泡立てる細く骨ばった指は、身体をなぞり水をなぞり、塩をつまむ。

〈おそろしさとは/ゐることかしら/ゐないことかしら〉

 詩の指がふとこちらを向いてそのように問うとき、自分はまだ答えを見つけられていないのだと思い知らされる。いることがおそろしいのか、いないことがおそろしいのか。いなくならないでと言えればよかったのかもしれないが、「いなくならない」ことの重みをひきうけつづける覚悟などもちたくはなかった。躊躇いはわたしの指となり、ユニットバスのきらめく轍の前に、たぶんいまもとどまっている。吉原幸子の詩とは、瞬間が永遠にひきのばされようとするときに洩れ出る叫びのようだと思う。

 

大塚真祐子
文筆家・元書店員。
2022年より毎日新聞文芸時評欄担当、朝日出版社WEBマガジン「あさひてらす」にて「何を読んでも何かを思い出す」連載中。
執筆のご依頼はこちら→komayukobooks@gmail.com

 


 

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