第7回 港の人 33

 なにか滴るような音がする
 水だろうか
 暗闇にベッドから下りて調べにいく気はしない
 水でなければ
 なんでありうるか
 夢のなかの答えはいくつもある

 きょうは平穏な一日だった
 窓のそとが
 うす暗くなるまで雨がふりつづき
 風がないのに
 夜なかにかけてゆっくりやんでいった

 鞍をつかんで
 地面を蹴るような思いをしたのは
 いつのことのことだったろう

 むろん空は青かったし
 水は
 そのためにあったようだった
 愛する人の体じゅうからあんなに汗がしたたるなんて
 思いもしなかった
 コップを持っていく自分の指が
 とってもあお白くみえた

 あれは
 水
 そうにきまっている
 そうでなければ
 なんでありえないか
 夢のなかの答えがいくつあったって
 ほかのいろであるわけがない
 あしたも
 おなじいろの天気であればいい

(一九八八年/北村太郎『港の人』(思潮社)より「33」)

 

 バスを乗りついで都心を北へ向かう。どちらのバスにも制服の学生が、押しあうように乗りこんでくる。降車扉のそばで語りあう男女のまわりには、まるで見えないサークルがあるかのように誰も寄らない。二人がけの席に腰かけていた少女は、同じ制服の少女が横に座ると嫌そうな顔をして、自分が先に下りるから席を通路側に代わってほしい、と言った。言われた少女は素直に席を立ち、二人はそれぞれのイヤホンを静かに差した。
 暑さの名残が突如として消え、10月のその日だけがうすら白い、冬のような曇天だった。バスは、大型車が日常的に走るとはとても思えないような狭い道を走り、ときおり木や垣根の枝を、車窓が大きくこすっていく。学生たちとともに終点の駅で降りると、あたりはすでに宵に近い明度で、これから墓地へ行くという時間ではないなとあなたは思った。しかしこんな機会はそうないはずなので、スマートフォンに地図を表示させ、画面に操られるように、ひたすら歩調を速めた。
 駅前にはおそらく古くからある商店街がつづき、通りにはたくさんの自転車があふれ、道幅を狭くしていた。中ほどに建つ区民センターには、ある宗教団体の信者へ、脱会を呼びかける大きな垂れ幕が下がっていて、そういえば活動拠点がこのあたりにあったと、あなたはいつか観たドキュメンタリー映画の映像とともに、あとから思い出した。商店街を過ぎ、大きな通りをわたると道幅はさらに狭くなったが、ところどころに丸い標識のバス停があるので、ここにもバスがとおるのだった。墓地の近くまでバスで行けることはわかっていたので、乗ってみようかと思ったが、時刻表ではすでに来ているはずのバスの姿が見あたらなかったので、早々にあきらめた。歩くうち、あなたはそのバスに抜かれた。
 通りには中学校も小学校もあって、そこからも制服やランドセルの生徒が、思い思いの足どりで飛ぶように出てきた。向かいにある八百屋の軒先には、仏花が数束バケツにささっていて、迷ったが買うのはやめた。自分は親族でも知人でもないし、仏花を買うことによって、まるで役割を担ったような気持ちになることを避けたいと思った。
 やがて高架が見えた。高架のある風景というのはどこも似ている。頭上を走るのは高速道路だ。車の走音が、それだけで球体の内部のようにこだました。高架をはさんで二つの信号をわたるとき、向こう側にヘルメットをかぶった自転車の少年がいた。あなたの娘は習熟の機会を逸し、まだ自転車に乗ることができない。いま自分がとおってきた、狭いわりに往来のはげしい道を、彼が安全に走れるようにとあなたは祈る。それまでずっとつないでいた子どもの手を、世の多くの親がこんなふうに離してきたのかと思うと、あなたは途方もない気持ちになる。仕事を無理やりきりあげ、夕方に娘を学童へ迎えにいくと、小学二年生の彼女はまだ、つなぐための手をあなたへ自然と伸ばしてくる。彼女の手はほんのり熱く、信じられないほど柔らかくて、すべすべとしている。
 ほどなくして、長い石塀や生垣の連なる一角にさしかかる。関東大震災後、当時の東京市中の仏教寺院が集団で移転したというこの一帯には、現在も26の寺院が集まっている。こんな場所が都内にあると知らなかった。連連とつづく重厚な門構えをいくつか過ぎると、すぐに目的の寺が現れた。
 築地本願寺の流れを汲むという、古代インド様式の本堂がはじめに目に入る。正面に見えるドームアーチ型の屋根は、築地本願寺のそれを小ぶりにしたようなつくりになっており、蓮と思われるモチーフも同じように掲げられている。本堂を横目に奥へ入ると、ふいに目の前がひらけ、こちらもやはり小じんまりと静かな墓苑がある。人の気配はないのに、あなたはたくさんの目に見られたような気がした。
 この墓苑のどこかに北村太郎が眠っている。墓石に松村家と本名が刻まれていることは、掃苔を記録した誰かのブログで把握していた。頭のなかで区画をくぎりながら、一基ごとに早足で確認し、墓苑の縁でようやく松村家の墓石を発見したが、本名は刻まれていなかった。曇天はいっそう濃く低くなり、これは誰かに頼ったほうがよいだろうと、詰所と思われる建物をあなたは訪ねた。玄関から出てきた帰りがけと思われる男性に取り次いでもらい、赤絨毯の奥から出てきた女性に、北村太郎の墓の場所を尋ねた。今日はあいにく詳しい人が不在で、と女性は困った顔をしながら、青焼きのような墓苑の地図を開いて、松村家の墓を調べてくれた。地図によると、この墓苑に松村家の墓は全部で三基あった。
 わたしも行きます、とその女性は上着も羽織らずに外に出て来てくださり、二人で手分けして「松村家之墓」を探した。女性が持ち出した地図には墓所番号が記されているが、表示があるわけではないので、あなたは掃苔録の画像をあらためてひらき、それに近い風景を探した。ツツジに似た植木と、他よりも少し低い墓石を見てあっと思った。見つけました、とあなたは大声で女性に告げ、お礼を述べた。女性はごゆっくりどうぞ、と言い残し、寒そうに詰所へ戻っていった。
 墓には赤紫の小菊が供えられていた。命日が近いので、自分と同じようにここを訪れた誰かかもしれないとあなたは思った。乾いている感じはなかったが、水をと思った。鞄を墓の手前に下ろし、桶と柄杓で墓石の上から水をかける。この作法は間違っているという蘊蓄をどこかで目にしたような気がしたが、いまはかまわないと思った。誰かの供えた小菊の花立てにも、たっぷりと水をかけた。こちらからは見えない小菊の茎の切り口に触れる水も、きれいに入れ替わるようにとあなたは思った。

 生命に身体があるように、精神には言葉がある。詩は、矛盾するようだが絶えず言葉を精神に戻そうとして、その働きを可視化するための運動体だ。北村太郎の詩を読むとき、わたしはただ精神のあるべき輪郭をなぞるための目になる。それは、後期の作品になればなるほどそうなる。
「港の人」は生と死のあいだで、恋愛と恋愛のはざまで、過去と宿命の途上で、ただ自らの精神を見つめている。精神を見つめる目が、まるで確信犯的手違いのようなふるまいで言葉になり、目の前にさしだされたとき、ここに刻まれた幸福の軽やかな明るさと、底知れぬ悲しみの深さに、それを読むわたしがひとしく引き裂かれていくのを感じた。死の四年前に編まれたこの詩集で、詩人は精神のみならず、言葉を肉体そのものにしようとしたのかもしれないと思った。「愛する人」にいつでも、言葉で触れられるように。

 

大塚真祐子
書店勤務。2022年4月より、毎日新聞文芸時評欄にて書評を担当。朝日出版社WEBマガジン「あさひてらす」にて、エッセイ「何を読んでも何かを思い出す」連載中。絲山秋子著『夢も見ずに眠った。』(河出文庫)解説を担当。

 


 

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