酔いどれ天使の遺書

松井左千彦 著

◎この世の底を彷徨った男が、死を目前にしてつづる遺書。そこには、魂の叫び、美の秘密、命のかがやき、死の誘惑、すべてが色とりどりに輝いていた。

◎ドヤ街のホスピスでひとり死を待つ男が、みずからの過酷な人生を思い返す。地図帳を偏愛し、まだ見ぬ世界を夢想した少年は、故郷を離れて都会の孤独にさらされるのだった。もがき続ける男の人生を、さまざまな人が訪れては去ってゆく。絶望と陶酔に翻弄されつつも、永遠なるものに目を凝らしつづける男の命は、どこへ辿り着こうとしているのか。その闇と光の旅路を、絢爛たる筆づかいで描く。

◎44歳から約15年間にわたって大切に書き継いだ著者渾身の第一創作集。文学のエッセンスを散りばめた香り高い小説が、いまここに誕生した。

 

■ 本書より

これから小学校五年時の晩秋に出現した「霊夢」を、記そうと思う。できればあの夢幻の物語を、碑文として明記するように。いまでは後年の妄想や錯乱のかけらもわたし自身の記憶の混乱によって入り乱れている、あの闇と光の旅路について。

寒村とよぶしかない我が故郷の部落には樹齢千年を優に超える一本の銀杏の巨樹があった。そこは海神を祀る古からつづく神社の境内であり、二年に一度、海の男どもの豪壮な火祭りの舞台となるほかは、ひっそりと静まりかえっていた。樹もそれがあまりに年輪を重ねすぎると神人の風韻さえ漂う。この樹もいつの時代からか村人の尊崇の対象となり「聖老樹」という名で呼ばれるようになった。神社の境内とはある種清らかに沈静した浄福を感じさせるものだが、聖老樹が常にそこにあり、時の不滅の流れに立っていることでその境内は神の絢爛さえ感じさせた。

深秋のある日の夕映へ近い、地上の世界があのファン・ゴッホの描いたような、星月夜の狂おしく輝かしい夜に、傾き始めたの出来事であった。

わたしはその午後、近所に住む知恵遅れの少年であったきっちゃんに、「セイロウジュみにいこう」と誘われ境内に来ていた。二人は大陸から寒気団の襲来による雪の日々が来るまえに可能なかぎり聖老樹を見たい、そのもとで遊んでいたいと思っていた。われわれは幾度も純色の黄葉に輝く、極めてグロテスクな幹をもつ、聖老樹を仰ぎ見た。われわれは少年ながら、ああ、美しいと溜息をついていたのだった。

「きっちゃん、セイロウジュはふしぎな木だ。すいこまれそうだ」(後略)

 

■著者

松井左千彦(まつい・さちひこ)

1958年、秋田県横手市出身。神奈川県横須賀市在住。

44歳にして無性に物語を創作したくなり日々の通勤電車の中で書き始める。昨年親しくしていた方が急逝したことにショックを受け、自分の不確かな未来を想い、書き続けていた作品を完成させた。第一創作集。

 

 

  • 四六判/上製本/カバー装/本文232頁
  • 1,800円(本体価格・税別)
  • 2017年9月刊
  • ISBN978-4-89629-337-1