シベリウスと宣長

新保祐司 著

◎江戸中期の国学者、本居宣長の歌「敷島のやまとごころを人問はば朝日に匂ふ山桜ばな」に、フィンランドの作曲家ジャン・シベリウス(1865〜1957)の音楽とつうじる魂の音を聴く。シベリウスの音楽は「清潔」であり、「純粋な冷たい水」を飲み干すように、ぬるき現代社会に生きるわたしたちの渇きを癒してくれるだろう。本書もしかり。シベリウスを愛する著者の声がときに烈しく、ときにあたたかく響いている。

◎シベリウス音楽の魅力とはなにか。その音楽のなかに流れている思想とは何か。シベリウスを愛する著者がシベリウス音楽の魅力を縦横に語り尽くす。

◎小林秀雄のモーツァルト論につづく、音楽と文学を往還する新しい文芸評論の誕生! 愛すべきシベリウス論の決定版。

 

■「序曲 純粋な冷たい水」より

一九九九年の夏、フィンランドの各地を旅したときに私が受けた感じは、やはり清潔であった。砂漠が清潔なように、この森と湖の国も清潔であった。今、これを書きながら、そのときの風光をあれこれと思い浮かべていると、トゥルクの町にあるシベリウス記念館の中で、セシル・グレイの本のコピーを読んでいたときの清潔な時空間にたどりついていった。

セシル・グレイは、イギリスの評論家(一八九五~一九五一年)で、シベリウス研究の世界的権威であるが、その著作『シベリウス 七つの交響曲』が記念館にあったので、コピーをとらせてもらったのである。

その著作の中の、第六番の交響曲を論じた章で、グレイは、シベリウスの「他の多くの現代作曲家たちは、あらゆる色合いと銘柄のカクテルを作るのに忙しかったのに対して、私は聴衆に、純粋な冷たい水(pure cold water)を提供した。」という言葉を引用した上で、他の多くの現代作曲家たちの音楽とシベリウスの音楽とのこのような関係は、シベリウスの他の作品群とこの交響曲六番との関係にもいえるとして、この交響曲は、シベリウスの音の泉からかつて流れ出た最も純粋で最も冷たい水(the purest and coldest water)である、と書いている。

実にすばらしく的確な批評である。シベリウスの焦燥の根源にあるものを衝いている。私が、シベリウスを愛好した所以である清潔さとは、この「純粋な冷たい水」ということであった。このような水に、私は渇いていたのである。「凡そわが弟子たる名の故に、この小き者の一人に冷かなる水一杯にても与ふる者は、誠に汝らに告ぐ、必ずその報を失はざるべし」(マタイ伝第一〇章四二節)。私は、この「小き者の一人」であり、シベリウスの音楽は、「冷かなる水一杯」であったのである。

 

■著者

新保祐司(しんぽ・ゆうじ)

1953年生まれ。東京大学文学部仏文科卒業。文芸批評家。現在、都留文科大学教授。著書に、『内村鑑三』(1990年)、『文藝評論』(1991年)、『批評の測鉛』(1992年)、『日本思想史骨』(1994年)、『正統の垂直線―透谷•鑑三•近代』(1997年)、『批評の時』(2001年)、『国のさゝやき』(2002年)、『信時潔』(2005年)、『鈴二つ』(2005年)以上、構想社。『島木健作―義に飢ゑ渇く者』(リブロポート、1990年)、『フリードリヒ 崇高のマリア』(角川学芸出版、2008年)、『異形の明治』(藤原書店、2014年)。

編著書に『北村透谷―〈批評〉の誕生』(至文堂、2006年)、『「海ゆかば」の昭和』(イプシロン出版企画、2006年)、『別冊 環18 内村鑑三 1861-1930』(藤原書店、2011年)。 2007年、フジサンケイグループ第八回正論新風賞を受賞。

 

■目次

序曲 純粋な冷たい水

第一曲 万物の声の音楽家/第二曲 慄える一本の葦/第三曲 凍てついた手/第四曲 白鳥透の交響曲/第五曲 忍耐は練達を生ず/第六曲 死のかげの谷/第七曲 野人の叫び/第八曲 グリーグ/第九曲 フィンランドの覚醒/第十曲 『カレワラ』/第十一曲 シベリウスと宣長/第十二曲 無限と沈黙/第十三曲 東山魁夷の耳/第十四曲 R・シュトラウス/第十五曲 チャイコフスキー/第十六曲 大俗物の渇望/第十七曲 ドビュッシー/第十八曲 シェイクスピアの『あらし』/第十九曲 葬送のための音楽終曲 屹立する巨岩

あとがき

 

 

  • 四六判/フランス装/カバー装/口絵1頁/本文182頁
  • 2,400円(本体価格・税別)
  • 2014年11月刊
  • ISBN978-4-89629-288-6 C0095