妻を送る 亡き人に贈る詩(ことば)の架け橋

本堂明 著

長年連れ添ってきた最愛の妻がガンにおかされる。10年という歳月の闘病の日々、詩人は妻のいのちに寄り添い、妻のいのちを愛おしむ。かけがえのないふたりの存在をひかり照らすように詩の言葉が降り注いでくる。せつなく心打つ。妻の死。慟哭。深い哀しみをくぐり抜けて、再び、詩が詩人の言葉を生んでゆく。ともに同じ時間を生き、ともに子どもたちを育てた妻に感謝し、いま、生かされてあることを謙虚におもう。そして、この滋味豊かな祈りの詩集があらわれる。ちいさなふたりの営みを記録する詩は幸いである。

 

■「まえがき―或る生の姿」より

寄り添うように長年生きてきた連れ合いが、声も手も届かないところに連れ去られた時、残された者にはどんな言葉が生み出せるだろうか。

長い悲嘆の果て、生きる力も失われかけた果てにかろうじて出てくるのは、深い淵の上を覆う、その薄い被膜に浮かび出てくるような言葉であった。

その言葉は日常の平面に死んだ魚のように並べられるような、限りなく記号に近いものではなかった。その被膜の上に浮かび出た言葉は、まるで底なし沼のような追憶の上に漂い、暗闇のように沈み込む深い淵の上に浮かび出ていた。まるで言葉自体が光を求めて浮かび出てくるかのように、淵の底から浮上してきた、そんな感じであった。もうどこにも届きようのない言葉が、出口を求めて、そして一筋の光を求めて浮かび出てきたかのように、口をついて出てきた。それがかろうじて産みだされた詩の言葉であった。

「言葉は存在の棲みかだ」。或る西欧の哲学者の言ったこの言葉をそのまま使えば、言葉を失うことは存在そのものを失うことかもしれない。だとすると、再び言葉に出会うことは、失われかけた存在そのものと出会う道であるのかもしれない。どんなに拙く、貧しくとも、それは或るひとりの人間の存在をひとつの光の中にもたらすものであったろうと思っている。

 

■著者

本堂明(ほんどう・あきら)

1948年生まれ。

著書に『サラリーマン読書人の経験―この苦しい二〇世紀的世界をしのぐ―』(同時代社 1992年)『夢ナキ季節ノ歌―近代日本文学における「浮遊」の諸相―』(影書房 2011年)。

ほかに『藤田省三対話集成』全3巻の注作成(みすず書房 2006~7年)「語る藤田省三―ある研究会の記録から―」(『世界』2003年3月号~9月号 岩波書店)等。

 

■目次

まえがき―或る生の姿

なつかしすぎて とりとめなくて

妻の日の愛の形見

短歌二十二首

俳句七十句

エッセイ*5編

言葉の架け橋に向けて

やがて滅びゆくものの前で

敬虔の発生―自分を超えるものについて

死という言葉の語感

あとがき―去りゆく命の日々に

詳細目次

 

 

  • 四六判/並製本/カバー装/本文248頁
  • 1,800円(本体価格・税別)
  • 2014年6月刊
  • ISBN978-4-89629-277-0 C0092